音楽遍歴

ここでは私の音楽暦について紹介します



●音楽遍歴


西暦(年齢) コメント
1966(0) 生誕
1977(11) 私が小学校5、6年生の時、音楽専門の教員だった(藪)先生が
音楽の楽しみ方っというのを私にちょっと気づかせてくれた
最初の人になるかな〜。

もっと掘り下げて言うと、
「音楽とは音を出して何ぼのもので(音を出さない間の部分とかもあるけど)
 それをして完成形を作る(ある意味、何かを表現し人に伝える形にする)ことは
 楽しいものである」
ということを実体験できる形で教えてもらえたことが
今でも私の中で生きています。

音楽を聴くということは日常、毎日何かしらのテレビ漫画を見ていたので
自然と聴くことはしていた訳けだが、そうではなく
音を出すことが楽しいものなのだと言うことを
実際に授業で0〜完成形までを丁寧に実体験できる形の
学習プログラムになっていたところが今考えると凄いところです。

その当時、無知な私でもやっていれば
自動的にそれが理解できる形になっていましたから
教え方が私に合っていたというより
教師として一流だったんだと思います。

その先生の授業のなかでバッハの小フーガ(フーガト短調)を
アルトリコーダー(縦笛)用にアレンジした譜面を渡され
曲を覚えるまでは、みんなで主線の練習。

ある程度できるようになったら、
主線+低音部とよばれる2声にアレンジされた譜面で半分に別れ、合奏。
その次は3声で。

そこまで行くと、今度はコーラス(人の声)を混ぜて入れて
ちょっとしたオーケストラ状態になる形まで行きました。

その延長上に初めから予定されていたものと思うのですが、
区域の小学校の演奏会で、それをもっとアレンジしたものを演奏することになり、
初めは1クラス内での授業枠でのことでしたが、
学年全員(当時5クラスで30人/クラスくらいだったので150人かな〜)で
演奏するくらいのアレンジにまで広がりました。

初めは1つの主線を演奏していただけなのに、
最終的には150人でオーケストラ並みのいろいろなパートを演奏し
それを演奏会(江東公会堂)で人前で演奏までするという
実に凄い内容になっていました。
(結果的にそうなったのかもしれませんが、その辺りは不明です)

実に1年(だったか半年だったか忘れましたが)でド素人が人前で演奏会まで、
しかも公会堂で演奏してしまうという規模のでかいものでした。

なので、普通に授業を受けているだけで
自動的にオーケストラとして演奏するまでの過程が0から学べた訳です。
(みんながそう思っていたかどうかは不明ですが)

また、同時に、
アレンジ次第で1つの曲がこうも変わるものなのか?と実感できた訳です。

この演奏の出来がよかったのか?記念なのか?不明ですが、
演奏会が終わって数日後、録音業者が学校に来て録音してくれることになり、
体育館でその演奏を録音したカセットテープが未だに家にあります。

というような、
今まで、先生と名の付く人には何十人も合ってきましたが
藪先生には今でも感謝しています。

今思えば、ミュージシャンに限らず、何でもそうですが、
優秀な人ほど教えるのが上手いという見本みたいな先生でした。
1979(13) 中学くらいからラジオを聞き始めたのですが、
YMOが世間ではブームとなりつつあるころ、
ラジオから変わった面白い音を出す曲があるな〜と
カセットに録音して聞いていたのがYMOでした。

何に興味をもったのか?というと、その変わった面白い音ですね。
初めはただ単純にそれだけでした。

しかし、
新聞のラジオ覧をチェックしエアチェック(懐かしい響き、今は使わないね〜)を繰り返し
YMOの曲を聴いていると、同じ曲を演奏しているのに
Liveだと場所毎に音色が変わっていたり、
微妙にシーケンサーのパターンが変わっていたり、
イントロになんかチョロッと入ったり入らなかったりと
でも演奏自体はきっちりなんだけど、
その微妙な違いで全体的な印象がちょっと違う、
でも演奏内容は以外とシンプル、
でもなぜかバランスがよくビート(ノリ)もGoodと
別の会場のLive演奏の音源を聴くたび聴くたびに
その関心がつよくなる一方でした。

でも、その時、単純に
世界に通用するというのは、
このくらいのことが当たり前にできるレベルなんだな〜....と
その他にどんなバンドが世の中にいるのかも良く分からないのに
勝手に思っていました。
1980(14) YMOの音源を沢山聞いているうちに、
いったいどうやってあの変な音を出しているのか?が疑問になり
その時の友達と悩んでいたら、雑誌にこんなの載っていたよと
シンセサイザーの特集のようなものがのった本を見せてくれ、
シンセサイザーの存在をしりました。

でも、それってどこで売っているものなのか?日本にあるのか?
どっかでいじれるのか?など調査するうちに
どうも楽器屋にあるらしい情報をどっかから聞きこんだ。

で、見つけたのが秋葉原のLaoxでした。

  その当時から秋葉原のLaoxでは楽器が展示されていて
弄りたい放題(としていたのは私だけかもしれませんが)だったので
シンセサイザーをいじりによく通いました。
(鍵盤を弾けないのに、単に音が出したいだけで)

半年間くらい通って(とは言っても20回くらいかな〜)高額な
アナログシンセを弄りまくったおかげで以下のものが習得できました。
(1)アナログシンセサイザーの使い方
(2)音と言うものがどのような理屈から論理的に解釈されているか?と言うこと
単純に言うと周波数(音程)、波形(音色)、音量(出力制御)を意識しました。
1981(15) シンセの使い方や音の理屈は理解したのですが、
鍵盤が弾けないとシンセは演奏出来ないので(シーケンサーがあれば別ですが)
鍵盤の練習のため、小遣いを貯めて、やっとの思いでカシオトーンを購入しました。
2オクターブ半くらいで音色が4つくらいのチンケナものでしたが一応和音がでました。

その当YAMAHAのポータ(ト?)サウンドっていうのも選択肢としてはありましたが
カシオトーンの方が安かったので、カシオトーンになりました。

で、YMOの楽譜を秋葉原のLaoxで購入してきたまではいいのですが、
音符の読み方が全く理解できず、その当時物持ちがよくて保管してあった
小学校の時の音楽の教科書を解析し、楽譜の読み方と、鍵盤のどこがドなのか?を
理解することができました。

カシオトーン購入後、YMOの演奏を録音したカセットテープを聴きながら
一生懸命コピーをひたすら(学校から帰宅後、寝るまで)やっていました。
同じ曲を1年間くらい1日7〜8時間(その他にやることがなかったこともありますが、
何かをやり始めると、とことん馬鹿になってやる性格も起因しています)
コピーしたおかげで、全パートを弾けるようになりました。
もっとも、その当時の弾けるようになったというレベルでは、
今考えると賛嘆たるものだと思いますが。
1982(16) その後、本来であれば高校に行ける生活レベルではなかったのですが、
生活保護やらの関係で一応高校に行けることになり、学校へは行きましたが、
生活パターンとしては、即帰宅、寝るまで鍵盤演奏の日々を毎日繰り返していました。

夏休みになると、学校へ行かなくてよいので、
お昼前に起床し、寝るまで鍵盤演奏をしていたのですが、
YMOのワールドツアーに参加していた渡辺香津美氏のギターパートが
キーボードではニュアンスが出せなかったため、
どうしてもそのニュアンスが出したくなり、
それがきっかけでまた小遣いをため、1万数千円の安いギター購入しました。

で、今度は学校から帰宅後、寝るまで、ギター三昧です。
ギターについても使い方が不明だったので、初心者本を購入し、
チューニングやら、コードの押さえ方やらスケールやらの
理屈を少々理解しました。

コードと言えば、YMOの楽譜にコードが書かれていたので...というか
音符は単音のメロかベースパートのみで、バッキングに関しては音符がアバウトな
リズム取りをしているだけの縦棒上の音符でしか書かれていなかったので
コードの理屈が書かれた本を購入し、その構成音がどうなのか?は
理解していましたが、ギターの指板に変換して演奏するのは
これまた、私にとっては偉業でした。

また、私は左利きなのですが、
1万円そこそこのチンケなギターで左用なんかある分けもなく
生活上は両党使い(右手でも左手でもどちらでもOK)だったので
仕方なく右利き用を購入しました。
1983(17) それから一年が経つか経たないうちに(ギターでやりたいことがなんとなくでき
一応満足できたころ)今度はベースでどうしてもニュアンスがでない部分があることに気が付きました。
ベースの細野氏はもともとE.BASSの奇才と言われていた人らしく(後から知った)
YMOでも初期のころは曲によってはE.BASSを弾いていました。(これも後から知った)

私はてっきり全てシンセベースで演奏しているのかと思っていたら、
どうも弦のベースを弾いているんだよ!!と誰かから聞いて
弦のベース?何じゃそりゃ?っと、その存在すら知りませんでした。

カシオトーンでBASSのパートもコピーしていましたが、
ベースっという概念がこの時まで理解できていなく(楽譜にはBASSとか書いてあったような)
単にシンセで低い音を出して演奏しているっていうくらいの認識だったので
ここで初めてバンドの構成っていうものの存在と、
ベースというパートと、その楽器があることを理解しました。

この時までは、
主線(メロ)+高音部(オブリやシーケンサーなど)+低音部(低い音)っというような
小学校時代の延長の感覚でしかとらえていなかったので、
ちょっと自分の中では革命的でした。
(と言うか、知っているべき前提がなく結果からみて模索していたので、仕方ないですね)

その後、家にある楽譜を見直したら、曲によってはE.Bassと書いてあったので
おー....この曲はE.BASS(弦のベース)で弾いていることを意味していることが分かった次第です。

そー言えば、小学校のころ藪先生からクラシックの楽器について習ったときに
ダブルベース(野球のホームベースと頭でリンクして覚えていた)っという名前が
あったな〜っと思い出しました。

しかし、弦っていったい何?
漠然とは弦は弦ですが、物理的には紐?綱?針金?動物の皮?特殊なビニールとか?っと
疑問がたくさん頭に浮かびました。

という分けで、
今度は、またお金を貯めて、
1万数千円のTenderのPBを買うことができました。

それと同時期に、吹奏楽部の奴らと音楽の話を通じてか仲がよくなり、
その部室に友人が誰かから譲ってもらって弾いていないE.BASSと
誰かの置き忘れアンプがあったので、休み時間になるとそのE.BASSを拝借し
昼休み時間は毎日セッションをしていました。

このころから、音で集まってくる奴らを拒まず
Saxやらトランペットやらギター(E,アコギ)やらドラムやらピアノやらと
私(友人のE.BASS)で毎昼休み時間、セッションをしていました。
もちろん、そのころの私はセッションという言葉すら知らずに。

そのことがきっかけで、吹奏楽部の奴らがどっかの学校に演奏会に行く時とかに呼ばれるようになり
そのイベントが近くなると、吹奏楽の楽器のなかで低音パートの楽器の譜面をいくつかもらい
それらにコードを振って独自にベースラインを組み立てた譜面を作って持参し、
自分の思ったベースラインを好き勝手に演奏していました。

また、
E.BASSを始めてすぐにNHKをエアーチェックしていたら
カシオペアのLiveがやっていて、その話をしていたら
あれはチョッパー奏法っていうんだっと吹奏楽の奴に聞いて
これまた、独学でチョッパーを習得し、吹奏楽のバックで曲によっては
なぜかチョッパー演奏をしたりしていました。
※吹奏楽に必要なのか?は不明ですが、そう思ったら音にしていましたね。

一部、保守的な人からはパチンパチン煩いっとムーッっとされましたが、
俺は俺の思う理想の形で演奏(表現)したいと思っていたので
うまく交わして、毎回好き勝手に思うラインを弾いていました。
1984(18) 高校三年になり、受験で勉強する奴らも出てきましたが
生活保護の状態で学校に行っていた私には無縁の話ですので、
その後も、学校へはE.Bassの演奏(練習)のために行っていたようなもんですね。

もっとも、学校へ行かせてもらっている状態でもあるので
1日も休まず、授業は最低限必要な単位を取るのみですが出ていましたが
興味を持つことがE.BASS以外にはなかったので、
即帰宅、寝るまでE.BASSの日々が卒業まで続きました。
※夏休み、冬休みのバイト以外はですが。

学園祭の時は、ロックバンドからベースの依頼がありステージでその演奏と
吹奏楽部の演奏でのバック演奏などかけもちで参加できました。

学園際での吹奏楽のバック演奏の時に
一曲リズムが際立った曲があったので、
リハでは地味に演奏していたのですが、
本番でいきなりチョッパーでペケペケ演奏したら
多少ヒンシュクをかいましたがお客からアンコールが来たので
結果オーライっと言うことで水に流しました。

それにしても、なんでギターは直ぐに満足したのに
E.BASSは飽きなかったのか?っと思うと
やはりそれは細野氏のE.BASSのPlyaの素晴らしさと
後から知ったチョッパー演奏の魅力にとり付かれたからですね。

細野氏の演奏はベースラインも素晴らしいですが、その絶妙なリズムやノリが
シンプルなんだけどすごく気持ちよくノレるベースでして、
それまでは、あまりリズムに対しては意識していなかったのですが、
そのノリを出すのが困難で異常に難しく、
それを物にしたく現在に至っている訳ですね。

また、チョッパーで演奏するのはいいのですが、
リズムがしっかりキープできないとカッコ悪いので
その辺でリズムの重要さに気が付いてきたころでもあります。
1985(19) その後は生活保護の状態だったので、働き始めたため
E.Bassを弾くのは休日くらいになりました。
また、コンピュータの会社に勤めてからは手に職をつけようと思ったので
休日もなく残業続きで働き詰めだったので、
24くらいまではほとんど楽器を触れなくなりました。

なので、
残念なことですが、
19〜24までの5年間はベースを弾いてないのと等しいです。
1989(23) 妹と弟(こいつが落第したおかげで1年余計に時間をとられた)が
高校を卒業したことと、コンピュータの仕事のペースになれ
時間とお金に少々余裕ができたので、
やっと念願かなって再度E.BASSのリハビリが少しずつ出来るようになりました。

また、雑誌やら楽器屋のチラシをみて片っ端からバンドの募集や応募をし
この時期、無数のバンドと接触をし、E.BASSのリハビリに滑車をかけました。
1990(24) 前年からの無数のバンドとの接触の結果、
池袋周辺で活動していたバンド「TRAIN」に加入し
そのバンドで2年間くらい月1回くらいのペースでLive活動をしました。

また、
そのメンバーの一人が音楽専門学校を出ていてレコーディングの
勉強をしていたため、初めてスタジオで8Trカセットでしたが
レコーディングと言うものを経験させてもらいました。

そのバンドでの活動中にも2〜3別のバンドを掛け持ちで
このころは活動をしていました。

そのため、週5日くらい飲みに行いっていた生活(週7日仕事してましたね〜そのころは)から
週3日くらいスタジオリハに行く生活に変え、
給料も全てスタジオやらLiveでの活動資金に消えて行く毎日となりました。
1991(25) このころ知り合ったドラムが別に活動している
自分より年上の人達のインストバンドに紹介してもらい、
ベースが空いたので、掛け持ちで参加させてもらうことにしました。

オリジナルのインストバンド(私はオリジナルのバンドを選んで参加していました)で
シンセが入っているので、結構好みのバンドでした。

また、
このバンドもメンバーがみんな私より年が上だったので
何か吸収できればな〜と思い加入しました。

鍵盤系の機材が多いバンドだった関係で
以外と大きい会場を選んでブッキングをしていたようで
そういう意味では今まで演奏してきた会場よりも
1クラス上の会場で演奏をする経験をさせてもらいました。

このころの有名どこでしたが、
芝浦インクスティック、ClubQuattoro、Eggmanなどで
演奏する機会がもてました。

でも、大きい会場でLive演奏して思いましたが
やはり場所よりも、演奏内容だな〜とつくづく思いました。
1992(26) ロック系、インストのバンドでは活動ができましたが、
ハードロック系のバンドがないかな〜?といろいろ探していました。

このころちょうど御茶ノ水の楽器屋に「ベース弾く」とだけ書いて張り出してもらった
私のチラシを見て連絡してきた人がちょうどハードロック系のバンドを
立ち上げるということで、いっしょに参加することになりました。

ここでも、もちろんオリジナルをやる訳ですが、
立ち上げる時でしたので、この時、何曲か曲を作って提供したり
曲のアレンジなんかもこのころ始めました。

それまでは、提供された音源に対して
ベースラインは好き勝手に私が責任を持って作り演奏させてもらっていましたが
曲そのものについて考えるようになったのはこのころですね。

でも、曲全体や演奏曲目の流れを考え全体的にプロデュースするような感覚で思考し
カツ、Live演奏ではハードロックなので思いっきり演奏するっということをすると
何処かしらそれなりの達成感を少々得られた気がしました。
ま〜、今から思えば小さい範囲ないでのことですが。
1993(27) その後、インストバンドでのLiveを観ていた人から声がかかり
和田あきらの弟子で変拍子などを取り入れた変わったインストバンドを立ち上げるので
一度、話を.....となりまして、
蒲田まで、セッションに行って、そのバンドでベースを弾くことになりました。

でも、このバンドの人達は人間的にちょっと....な人間ばかりで
演奏や技量はま〜うまい方(自称プロでしたから)だとは思いましたが
人間的余裕が感じられず(音にもそれが出ていた)、
やはり演奏される音楽もそういう状況ですから余裕がなくどんどん小さいものになって行き、
結局Live前にやっつけで形を決め、えんや〜って感じでした。

最後には自分可愛さに私のベースが悪いとか文句を言われ、
音楽性が合わないのでやめてくれと直接私に言う勇気がないようで
私のいないところで私を首にする話を残りのメンバーに根回しをして決めたらしく、
自分からやめるように仕向けられたと言いう変な経験をしました。

いや〜、
半年くらいでそう言う連中と分かれられてよかったと思っています。

ちっぽけな昔の栄光にぶる下がって、
現時点や先を見れなくなっている寂しい人達もいるんだな〜と勉強になりました。

また、
このころから少々仕事が忙しくなり(慢性的にそうだったのですが余計に)
この後2〜3年間くらいは、まともにベースを弾けない状況にまたなってしまいました。
1994(28) この年、雑誌を見ていたら馬橋のLiveハウスでハウスバンドを募集していたので、
思い切って行ってみることにしました。
そこが、今となっては私の生活の一部にもなっているLiveHouse「OLINZ」でした。

もっとも、ハウスバンドの話はなかなかうまく進まず、
そこで知り合ったギターの人に誘われ、その人が立ち上げる予定のバンドに
参加しないか?と誘われ2〜3回リハをしましたが、
これまた他力本願の人間の集まりのようで、うまくいかず(行く訳がない)、
ちょうどそのころ「OLINZ」でセッションが始まったので
夜な夜な、OLINZセッションに出かけるようになりました。
1995(29) OLINZのセッションで知り合ったJan-Marとハッちゃんで
このころスタジオに入ったりして、
これがきっかけで Jan-Mar と演奏活動を開始しました。
1996(30) このころはイエローバーバリアンという名前で Jan-Mar と同じく
OLINZセッションで知り合った金村さんとで
OLINZや都内各所でインプロに近い形の演奏活動をしてました。
1997(31) このころは Jan-Mar And Meditations という名前で Jan-Mar と同じく
OLINZセッションで知り合った広瀬さん、ハッチャン等とで
OLINZや都内各所でインプロに近い形の演奏活動をしてました。
1998(32) 前の年(暮れ)にJan-Marの旧友である剛がアメリカから帰国したことをきっかけに
Jan-Marと剛のバンド、TheClaytonBrothersBand に参加。

その他OLINZで知り合った後藤さんのエルニーニョセッションや
Mayumi.Sさんのバックバンドに不定期参加。
1999(33) 前半は去年同様の活動状況でしたが、
後半、自己のバンド、SEPTEMBERを企画し活動を開始。
11月に初回Live演奏実施。
2000(34) この年からSEPTEMBERの活動が中心となり
作曲、編曲、人集め、ブッキングなど全て自分で行うようになる。

当初順調に活動を進めていたSEPTEMBERですが、
この年10月、ギターが急遽活動不能状態に陥ってしまったため、
ブッキング済みの予定を埋めるため、知りあいのミュージシャン2人にお願いし
急遽OCTOBERとしてブルース&ロックでの演奏で事なきを得る。

また、
SEPTEMBERは11月から別のギターを加入し活動を継続する。
スケジュール的に無理のある日程でしたが、
この時のギターが頑張って曲を覚えてくれたことに感謝しています。
2001(35) ひょんなきっかけから演奏することになったOCTOBERですが、
以外にラフに楽しく演奏ができたためOCTOBERの活動を定期的に行うようになり
この年はSEPTEMBERとOCTOBERの2バンドで活動を継続しました。

しかしSEPTEMBERの方は3月にギターが抜け再度ギター探しの状態になり
それ以降はOCTOBER一本での活動となりました。
2002(36) 約1年かけて、SEPTEMBERのギタリストが決まり
この年は再度SEPTEMBERの活動を再開しました。
また、OCTOBERもコンスタントに活動をしました。
2003(37) 順調に活動していましたSEPTEMBERですが、
9月以降、今度はドラムが活動できない状態になり活動が休止になりました。
OCTOBERはコンスタントに活動しました。
2004(38) 今まで約4年間続いたOCTOBERですが、
メンバーの入れ替わりが激しくなり落ち着かなくなってきたため
11月で活動を一時中止することになりました。
2005(39) 今年は特に主だった活動もなく、
頼まれることがあればベースの演奏をバックでするくらいです。


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